風の谷のナウシカ - レビューと感想

風の谷のナウシカ

  • 作品名 : 風の谷のナウシカ
  • 公開年 : 1984年
  • 監督 : 宮崎駿

ナウシカ

普通の少女のように明るく無邪気にはしゃぐ姿、活動的で大胆な行動を当然のように(強い意志に基づいて)行う姿、人間や虫に慈愛を以って接する姿、民の前で姫として振舞う姿...などナウシカには様々な面がありますが、それらは(それらが集まってか)とても魅力的に見えました。

ナウシカは人間や人間以外にも大きな優しさや自己犠牲(他人へ向けられた優しさと自分へ向けられた厳しさ)を以って接する側面がある一方で、憎しみや怒りを露にして激情のままに人間を殺害する事(他人に向けられた厳しさ)もあり、強さや優しさの中にも激しさを秘めた少女であるように見えました。心に強さと優しさを兼ね備えている女の子は他のジブリ作品にも見る事が出来ますが、ナウシカのように極端にまで振れる優しさと厳しさを持ったヒロインは歴代のジブリ作品を見ても他にはいないと思います。

ナウシカは自己犠牲を以って人間と自然とを和解させた仲介者であり、救世主、人々の行く先の希望であり、死(オームに跳ね飛ばされた後のナウシカが本当に死んでいたのかどうかは不明ですが)からの復活を遂げたと言う事から言えばキリスト的(因みに、キリストはティファレト、慈悲(水)と峻厳(火)の子、太陽、四大では「風」になります。)であると言えると思います。(ここでの「自然」は「風の谷のナウシカ」では虫(大地)、キリスト教では神(天)です。)

ナウシカを見ていて残念だったのは独り言が多い事です。シャア・アズナブル並みの多さだと思います。

ナウシカに就いては1本の映画と言う限られた時間の中にありながら十分に魅力的に描く事が出来ていると思います。個人的には「風の谷のナウシカ」の面白さは全体に見られる物語性とこのナウシカと言う少女の魅力があってのものだと感じます。

空と人間

ジブリ作品の中には「空と人間」を要素として含んでいる作品が幾つかありますが、この「風の谷のナウシカ」もその一つです。空と人間...特に人が剥き出しの状態で空中にいる場面は見ていてドキドキさせられます。これは「天空の城 ラピュタ」や「魔女の宅急便」でもそう感じました。夢もありますし、見ている人を惹き付ける良いものだと思います。(「紅のブタ」のように飛行機に乗ってしまうとそれが薄れてしまうのですが...。)

オーム

オームは理解力を持っているように見えました。滅ぼさなくとも(ナウシカが示したように)人とオームには共生出来る可能性があると言えるのだと思います。これはオームだけでは無く、程度には違いがあるかと思いますが、他の虫でもそうなのだろうと思います。

オームは切っ掛けがあれば人間の排除に動く大地の掃除係のようなものなのだと思います。

巨神兵

物語の中では一部の人間達が巨神兵の火によって腐海を焼き払い大地を清浄に変えようとしていました。これは(自然の恩恵を受けるその一方で)自然に抗い、自然との戦いの中で文明を築いて来た人間(自然の驚異から身を守るため、自然からより多くの恩恵を受けるため、自然に対する防衛、制御、管理を試み、自然の不都合さを削ろうとして来た人間)としてはあって当然の考えと行動だと思います。人が人の視点でものを見るのは当然の事ですし、自然に対して人が服従する必要はありませんので。ただ、方法、程度、規模、他に解決方法が無いのかなどの問題はあると思います。

(風の谷の人々も致し方無いとは言え不都合さの方がかなり大きくなってしまったために森の焼き払いを行っていました。この風の谷の人々が森を泣く泣く焼き払った事は一部の人間達が巨神兵を使って腐海を焼き払おうとしている事と根本ではそう変わりが無いと言えます。どちらも不都合な自然の排除です。しかし、風の谷の人達は人間の勝手な都合で自然の不都合さを削ると言う点では同じだと分かっていながらも、その程度が問題だと考えているようです。恐らく、それは「必要以上に自然を傷付けない」と言う事なのだと思います。ですが、この「必要以上」と言うところの線引きは判断する人間が何を重要とするかによって変わって来るものであり、もし、巨神兵による腐海の焼き払いによって(そこに大きな負の要因が存在せず(※))人間が自然の驚異に怯えずに暮らせるようになるなら、それは果たして行き過ぎと言えるのかどうか...難しいところであるように思います。)

(※自然の中の都合の良い部分と都合の悪い部分は完全に綺麗に切り離せると言うものでは無く、一方を削ればもう一方も削る事になると言う事も往々にしてあります。(あれだけの不都合さを持った腐海すらそうです(そう言う設定にされています)。人々が暮らすのに不都合な状況を作り出している一方で、環境を改善させる働きを持っています。)

自然を征服する事も自然と決別する事も出来ず、だからと言って自然に身を任せて死んで行く訳にも行かず...結局、大切なのは共生と戦いの妥協点を見付ける事なのだと思います。都合良く自然の恩恵を受けながら自然から受ける不都合を削って行こうとするのは自然側の視点から見れば勝手極まりないものだと言えるのでしょうけれど...それが人間かと。(話が逸れて巨神兵と余り関係の無い話になってしまいました。)

メッセージ性

ジブリ作品の中には見ていて強いメッセージ性を含んでいると感じられる作品がありますが、この「風の谷のナウシカ」もそう言った作品であると思います。

ただ、姫はどちらかと言えばそう言ったものを鬱陶しく感じる傾向にあります。素晴らしいメッセージ性を持ったアニメはそれはそれで良いものなのかも知れませんが...物事に対しての理解力が低い姫にとっては扱いに困る要素であり、無い方が良いとまでは思いませんが、無い方が見やすいと感じる事の方が多いのは確かです。

「風の谷のナウシカ」は姫の好みに合った物語性を持っていますが、それと同時にその物語性とは切り離す事の出来ないメッセージ性をそこに含んでいます。そのため、姫にとっては夢中になれる部分と鬱陶しく感じる部分の双方を持ち合わせた作品であると言えます。

古い言い伝え(予言)

古い言い伝え(予言)の内容...「その者、青き衣を纏いて金色(こんじき)の野に下り立つべし、失われし大地との絆を結び、ついに人々を青き清浄の地に導かん。」...は少々恰好悪いように感じました。言い伝えに恰好良いも恰好悪いも無いのですが、言葉遣いであったり、予言の視点であったり、そう言った部分でもう少し魅力的に見せる工夫があっても良かったのでは無いかと思います。特に言い伝えの前半部分ですが、ナウシカがオームの触手畑を歩いている場面を多少の婉曲表現で言い当てても...どうなのかと思ってしまいます。

気になったところ/不思議に思ったところ

虫に理解力や判断力らしきものが備わっていて、人との交流が可能だと言う前提はアニメと言えど少し受け入れ難く感じました。しかし、これを受け入れなければ作品の根幹の否定にも繫がり兼ねないと言う事で、結局は(アニメを見るために)検討も理解も無いままに受け入れる事に...。そう言う世界なのだと。

普段から青い服を着ているナウシカが、一度、赤い服に着替え、それがオームの体液によって染まり青色の服になると言うのは演出的に視聴者を一時的に謀る目的以外に意味が無いように思いました。他に何か(物語外に対してでは無く)物語内での意味があったのでしょうか。姫には見付けられず、気になったままです。

オームの体液はナウシカの服を青く染めますが、その染まり具合は余りにも綺麗に染まり過ぎのように見えました。前面も背面もスカート部分の内側の腰部の周辺までムラなく染まっていたのには驚きました。

巨神兵が口から放った光線で地面に火の海が出現していましたが、単なる地面、燃焼物が無いところにあれだけの炎が出現すると言う事は、オームが可燃性なのか巨神兵の光線そのものが可燃性なのかも知れません。

ナウシカがオームに跳ね飛ばされた際、テトは空中に放り上げられたナウシカの肩に留まり続けていましたが、これは凄い事のように思います。(その後、落下まで肩に留まり続けたかどうかは不明ですが、落下後は地面に仰向けになっているナウシカの腰の左側にいました。)

オームに跳ね飛ばされた後のナウシカを見ると顔も服も汚れた状態でしたが、その後の金色の野を歩くナウシカを見ると顔も服も綺麗な状態になっていました。オームの触手には傷を癒す力(これだけでも信じ難いのですが)だけでなく、顔や服の汚れも綺麗にする力があるのかと不思議に思ってしまいました。服の破れは直せないようですが。

オームに跳ね飛ばされた後のナウシカの側に現れたオームの子供は体に複数本の杭のようなものが刺さったままの状態でしたが、その直後の場面、ナウシカがオーム達の触手に持ち上げられた場面ではそれらの杭はどこかへ消えていました。短時間の間に...一体、どこへ...。

「風の谷のナウシカ」の評価 : 60点

1本の映画の中で表現していると言う事を考えると全体的には良くまとまっている作品だと言えると思います。ただ、話の内容に姫のような理解力の低い人間には少し分かり難い部分がある事と、姫が苦手としているメッセージ性が作品内に強めに感じられる事が個人的には好みだとは言えませんでした。

しかし、全体的にはナウシカの魅力、物語の展開、幾つかの見所(巨神兵の復活、オームの大暴走、ナウシカの犠牲による和解など)もあり、飽きずに見る事が出来、好みでは無いにしても十分に楽しむ事が出来る作品だと思います。

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