耳をすませば - レビューと感想

耳をすませば

  • 作品名 : 耳をすませば
  • 公開年 : 1995年
  • 監督 : 近藤喜文

物語全体

ジブリにしては珍しくファンタジー要素の持ち込みが見られない単なる日常を描いた作品になっています。

姫は(語られたところでよく分からない)恋愛の話であったり、将来に夢を持って生きようとする人間の様であったりには殆ど興味が無く、そう言うことから言えば「耳をすませば」の内容は姫の好みには合っていなかったと言えます。実際に、月島雫と天沢聖司の出会いや月島雫が天沢聖司に惹かれて行く過程、夢を持つ天沢聖司の影響を受けて自分も何かをしなければと物語を書き始めてそれを完遂しようとがんばる月島雫の姿など...そう言ったところには見ていても関心を持つ事が出来ませんでした。作る方からすると、恐らく、そう言ったところを見せたかったのだろうと思われ、姫とは噛み合わない作品だったのだと思います。

物語の展開は起承転結も出来ていて分かりやすくて良かったのですが、月島雫が物語を書く事を決めた辺りからは中弛みを感じ、それが長く続いたのは残念でした。

月島雫

月島雫は姫の周りにはいない感じの女の子で、見ていて驚かされるところもありました。友達に「やっほー」と呼び掛けたり、頬杖を付いたり...と。

走るのが速いのは羨ましかったです。

劇中では月島雫は成績が下がった事でお姉さんに怒られていましたが、その後に映った「中間テスト成績表」を見ると姫よりも遥かに成績が良いようでした。これで怒られるとは(「猫並みの脳しか持たない」と言われる)姫からすると不思議な感覚です。羨ましくさえあります。

月島雫は電車で出会った猫(ムーン)の後を付けて行っていましたが、これは姫も猫の後を付いて行った事があるので見ている時にはその事を思い出しました。...とは行っても、姫の場合は猫の後を勝手に付けて行ったのでは無く、猫に付いて来るように誘われて付いて行った(※)と言う点では少し違っているのですが。

(※猫が姫を先導するように姫の前を歩き、少し進んでは立ち止まって振り返り、(立ち止まって振り返った際に姫が遅れている場合は「にゃー」と鳴いて自分の後に付いて来るように催促し、)姫が付いて来ている事を確認するとまた先に進む...と言ったような感じでです。ただ、猫は途中から姫が通れない「猫の道」に入って行くので、そこから先には進んだ事はありません。(猫は「猫の道」に少し入ったところでこちら(先に進む事が出来ずに立ち止まって困っている姫)を見て何度も「にゃー」(恐らくは「こっちに来てよ」)と鳴くのですが...こう言う時は猫の期待に応えられない事に申し訳なさで一杯になります。多分、猫は姫に自分が普段使っている道や場所を教えたかったのだと思いますし、出来れば姫も猫に付いて行きたいのですが...。)思い出した事をそのまま書きましたが...話が大きく逸れてしまいました...。)

天沢聖司

天沢聖司は本格的なバイオリン修行に入る前から「才能」と言う言葉を口にしていましたが、これは少し早過ぎる言葉のように思いました。その後、「とにかく一生懸命にやってみる」、「がんばる」と努力する事に就いても触れていましたが...最初から(まだ何も始まっていない段階、第一歩を踏み出す前の段階から)「才能」を気にしても仕方が無いのでは無いかと...。先の見えないものに対する不安もあって(まだ何も始まっていないからこその不安から)「才能」を口にしたのだとは思いますが、修行して実力を身に付けて行き、そこで越えられない壁に当たってから「才能」云々で悩んでも良いように思います。そして、壁に当たっても(それが本当に「才能」のせいであるのかどうかは別にして)挫けずに壁を越えるための直向な努力を(それこそ「才能」のあるなしなど気にする暇も無いほどに)続けて欲しいものです。

あやちゃんが言うには「努力をする前に才能を口にする人間は失敗した時に才能のせいにする準備が出来ている人間。」だそうです。(姫は(上でも書きましたが)先の見えない不安がそうさせているところもあると考える方ですが、あやちゃんは姫よりも厳しい見方をしているようです。)

月島雫の父

月島雫の父は月島雫の前でタバコを吸っていましたが、これには驚きました。姫からするとタバコを吸うと言うだけでも信じられない事なのですが、それを「父親」が子供の前で行っているのですから...。(タバコに関しては)自分を優先するところがあるのか、考えが及ばないところがあるか...娘の意志を尊重して理解を示す事が出来る父親だけにそう言ったところがあるのは残念なように思います。姫の父親がもし月島雫の父親のようであったら悲しいだろうと思いました。

カントリー・ロード

「カントリー・ロード」は姫も聞いた事がある曲でした。有名な曲なのかも知れません。(ただ、姫が聞いた事のある曲は歌詞が日本語ではありませんでしたし、どちらかと言えばオープニングで流れていた曲(タイトルは知りませんが、エンディングを見ると「Take Me Home, Country Roads」となっていました。「カントリー・ロード」の原題にもその名前があり、「カントリー・ロード」の翻訳前の歌のようです。)の方に近かったように思います。それも雰囲気は違っているのですが、「聞いた事がある曲」だと言うのは間違いないと思います。)

劇中で天沢聖司のバイオリンに合わせて月島雫が「カントリー・ロード」を歌い出す場面。月島雫は歌っている最中に自ら手拍子を始め、結構な大きさの声で大胆に歌っていましたが、この場面は見ていて何だか恥ずかしかったです。姫は自分の歌に自分で手拍子を入れたり、あのように大胆に歌ったりする事など恥ずかしくて出来ませんので...。よく平気だなと(恥ずかしいところがありながらも実行出来るものだなと)思いながら見ていました。

「カントリー・ロード」に就いては友達の1人が...映画館で「耳をすませば」を見ていたなら、きっと、映画を見終わったその足でCDを買って帰っただろう...と言うような事を言っていました。その友達は「カントリー・ロード」を映画館で見た訳では無く(生まれる前の作品なの初公開時には見れませんし)、実際には自宅で光の円盤を使って見たらしく、故にCDの購入に走るような事は無かったようなのですが...あくまでも「映画館で見ていたなら」と言う事のようです...。(友達には申し訳無いのですが、無意味な仮定のような気もします...。)

物語「耳をすませば」

月島雫は劇中ではバロン(天沢聖司のお爺さんが所有している猫の人形、男爵(フンベルト・フォン・ジッキンゲン)がモデル)を主人公にした「耳をすませば」と言う物語を書いていましたが、物語の中のバロンは非常に賢そうであり、とても「猫」がモデルになっているとは思えませんでした。姫はあやちゃんに「猫並みの脳しか持っていない。」と言われる事が多いのですが、せめてバロン並みであれば...などと思ってしまいました。

劇中では素人のような声が気になり場面に集中出来ないところがありました。特に月島雫の父親の声が聞き難くかったです...張りが無く、切れが悪く、しかも棒読みで...。

これは他のジブリ作品の多くに就いても言える事なのですが、作り手(お金を得るために視聴者に向けて作品を作っている者)として視聴者の事を考えてくれているのであれば聞き取り難い声の人を使うのは避けるべきなのでは無いかと思います。視聴の妨げになっている事が多々ありますし、視聴者を無視しているのでは無いかと言ったあらぬ誤解を招き兼ねませんので。

また、台詞を棒読みする人も余り使って欲しくありません。異質な感じを受け、やはり、それが気になって内容に集中出来なくなります。これも「耳をすませば」を含め、ジブリ作品に多く見られます。

気になったところ

天沢聖司が「この瞬間が一番綺麗に見えるんだよ。」の台詞のところでその前に声も出さずに単に口をパクパクさせていたのが気になりました。あれは一体...何であったのかと...。

「耳をすませば」の評価 : 7点

全体的に物足りさ(内容的な物足りなさ)を感じました。中弛みがあり、その上に時間も長いため、途中で飽きを感じてしまいました。お話の展開も(姫は世の中の創作話にそれほど詳しい訳ではありませんが、その姫から見ても)在り来たりな要素が多く見られ(名前しか知らずに気になっていた人物が既に見知っていた人物、最初は気に入らない相手だったはずがいつの間にか惹かれるようになっていて気が付いたら好きになっていた...など)、それらを上手く組み合わせてお話を魅力的に見せている辺りは悪くは無いのですが、それだけで終わってしまっているところが目立っていたように思います。

「耳をすませば」と言う作品は端的に言えば...男の子と女の子の出会いと(幼さのある)恋、そして夢によって大人になって行くその始まりの段階を描いた作品...だったと言えると思います。ただ、恋愛に関しては他人の恋愛事となると姫にとっては良く分からないところであり、興味が湧くようなものでもありません。また、夢に関しても「何となく生きている人間」が「夢を持って生きている人間」に触れた時に感じる焦りや不安、自分が置いて行かれそうになる感覚と言うのは(感じた事は無いまでも)理解出来るところではありますが、それもそれほど興味を持てるような話ではありません。そのため、姫が見ていて惹かれる全体を通して部分は殆ど無かったと言えます。

キャラクターの声に関しては異質に感じるものや聞き取り難いものがあり、視聴の妨げになっていました。プロがお客を相手に作った作品であれば、最低限、そう言った妨げになるものは取り入れないようにすべきなのでは無いかと思います。特に台詞の聞き取り難さは視聴者にとっては害こそあれど何の得も無い事のように思えますので。

「耳をすませば」は姫の興味には合わない作品だったと言え、テーマへの興味のなさから退屈さが更に増したと言うところはあったと思いますが、興味に合う合わないを抜きにしても内容的には物足りない(退屈さを感じさせる)出来であり、中弛みも見え、全体的には今一つの作品であったように思います。この内容であればもう少し短く纏めた方が良かったかも知れません。7点です。

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